原状回復は工事の前後で写真を残す|築古アパートのオーナーが契約書の11号に足す1行
結論からお伝えすると、原状回復の工事は着手前と完成後の2回、同じ場所を同じ角度で撮っておくのが正解です。記録として美しいからではありません。次の退去で入居者に費用を求めるとき、火災保険を使うとき、税務で修繕費として処理するとき、工事のやり直しを業者に求めるとき——この4つが全部、「工事の前と後で、そこがどうだったか」を出せるかどうかで決まるからです。
退去から10日、業者から「終わりました」と連絡が入る。鍵を受け取りに行くと、壁は白くなっていて、床も張り替わっている。ひととおり見て、その日は帰る。写真は撮らない。半年後、次の入居者から「入居したときから、この扉の下に欠けがありました」と連絡が来る。手元にあるのは業者の請求書1枚。そこには「クロス張替え工事一式」と書かれている——この形が、いちばん多い詰まり方です。

国のガイドラインが写真を求めているのは、入居と退去の2回だけ
国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」は、冒頭でこう書いています。トラブルの大きな原因は「入居時及び退去時における損耗等の有無など、物件の確認が不十分であること」であり、当事者間の記憶だけではあいまいになる。だから入居時と退去時にチェックリストを作り、「具体的な損耗の箇所や程度といった物件の状況を平面図に記入したり、写真を撮るなどのビジュアルな手段を併せて活用することも重要である」。
ここを読み違えないでください。国が写真を勧めているのは「入居時」と「退去時」で、「工事の前後」ではありません。ガイドラインの確認リストにも、工事という欄はありません。
つまり工事の前後の写真は、誰の義務にもなっていない。放っておけば残らないということです。退去時の写真の撮り方は退去の立会いで写真を撮る場所で整理していますが、そこから先——業者が入って、出ていくまでの間は、記録が切れています。
契約書にも「写真」という言葉は出てこない
建設業法19条1項は、請負契約で書面に記載して相互に交付すべき事項を16号まで並べています。工事内容、請負代金の額、着手と完成の時期、設計変更があったときの取り扱い、第三者に損害が出たときの賠償——並べてみると、写真という言葉は1か所も出てきません。
入っているのは11号です。
十一 注文者が工事の全部又は一部の完成を確認するための検査の時期及び方法並びに引渡しの時期
では、どこに書けばいいのですか?
この11号の「検査の方法」に書き込みます。条文が求めているのは検査の時期と方法を決めておくことなので、その方法として写真を指定すれば、契約の中身になります。文言は短くて構いません。
- 着手前と完成後に、施工する部位ごとに同じ位置から撮影し、データで引き渡すこと
- 撮影する部位は見積書の行と対応させること(「洋室6畳の壁」なら壁の4面)
- 撮影日が分かる形で渡すこと
見積の段階で条件をそろえておく話は相見積もりは金額より先に条件を渡すで書きました。写真の指定も、金額を聞く前に渡す条件の1つに入れてしまうのがいちばん摩擦がありません。工事が始まってから「撮っておいてください」と言うと、追加の手間の話になります。
工事後の1枚が、次の入居者にとっての「受け取ったときの状態」になる
民法621条は、賃借人の原状回復義務をこう定めています。
賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。
請求できるのは「受け取った後に生じた」ものだけです。だから、受け取った時点でどうだったかを示せなければ、その先の話が始まりません。工事完成後の写真は、次の入居者が受け取る部屋の「起点」そのものです。入居の申込が入ってから慌てて撮るより、工事が終わった日に撮ったもののほうが、間に誰も入っていないぶん強い記録になります。
築古では、ここが特に効きます。全部を直すわけではないので、直した面と直していない面が同じ部屋に混ざる。半年後に「元からあったのか、この人が付けたのか」を分けるとき、直していない面の写真がないと、分けようがありません。
保険と税務でも、同じ写真が使われる
火災保険で風災や水災の請求をするとき、保険会社が見るのは損害の状態です。保険法95条1項は、保険給付を請求する権利は「これらを行使することができる時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する」と定めています。3年という幅があるので、先に直してしまってからでも間に合う場面はあります。ただし、直したあとで残っているのは写真だけです。撮っていなければ、時効の前でも証明する材料がありません。実際に出るかどうかは約款と個別の判断になるので、保険会社と代理店に確認してください。
税務でも同じものを見ます。国税庁のタックスアンサーNo.1379は、修繕費と資本的支出の区別は「修繕や改良という名目によるのではなく、その実質によって判定します」としたうえで、必要経費に算入できる目安を挙げています。おおむね3年以内の周期で行う修理や、1つの修理・改良などの金額が20万円未満のとき。区分が明らかでない金額が60万円未満、またはその資産の前年末の取得価額のおおむね10パーセント相当額以下のとき。実質で判定する以上、「何を直したか」を示せる材料が要るということです。判定そのものは税務署か税理士に確認してください。
やり直しを求められる期間には、区切りがある
工事の出来が悪かったとき、請負人に追完(やり直し)や減額を求められる期間は決まっています。民法637条1項は、注文者がその不適合を知った時から1年以内に通知しないと、追完・減額・損害賠償・解除のいずれも求められなくなると定めています。
あわせて636条は、注文者が与えた指図によって生じた不適合は、注文者の側から問えないとしています(請負人がその指図が不適当と知りながら告げなかった場合を除く)。オーナーの判断で仕様を決めた部分は、あとから業者の責任にできないということです。この2つの条文は追加工事を口約束にしない手順でも扱いました。着手前の写真は、ここで「元からそうだった」と「工事で生じた」を分ける材料になります。

何を、何枚撮るか
枚数を増やすより、対応が付くことのほうが効きます。
- 見積書の行と同じ単位で撮る。「洋室6畳クロス張替え」なら、その部屋の壁4面と天井
- 直さない面も撮る。あとで「ここは元から」と言えるのは、この写真だけです
- 同じ位置・同じ角度で、着手前と完成後の2回。並べたときに比べられなければ意味が薄い
- 設備は型番の見える位置から。給湯器・エアコン・水栓は、機種が分かると次の交換時期の判断が早い
- 部屋名と日付でフォルダを分ける。探せない記録は無いのと同じです
工事は思ったより早く終わります。原状回復でクロスを張り替える場合、大家さんの内装屋の公開している目安では1日あたり56m(50㎡)程度で、6帖洋室の壁と天井なら34〜40m程度なので、半日〜1日で仕上がります。着手前に撮る機会は、実務上その前日までしかありません。
金額の感覚も添えておきます。同社の料金表では、スタンダードクロスの張替えが1㎡あたりではなく1mあたり1,088円(税抜、めくり代・残材処分代・下地処理代を含む)。同社が示す6帖間の計算例では、開口部を引いた実面積が33.33㎡、メーター換算で約37mとなり、1,088円×約37m=40,256円(税別)です。これは継続して発注する事業者向けの業者価格で、個人で単発で頼む一般消費者価格は、これより2〜3割ほど上がります。撮り忘れた1枚のせいで、この金額を誰が持つかが動きます。
今日やることを1つだけ選ぶなら
次に工事を出すとき、見積を依頼するメールに1行だけ足してください。「着手前と完成後に、見積書の行ごとに同じ位置から写真を撮って、データで送ってください」。それだけで、この記事に書いた4つの場面のうち3つが片付きます。すでに工事が終わってしまった部屋があるなら、今の状態を今日撮ってください。今日が、その部屋のいちばん古い記録になります。


